パン屑の道しるべ

読み散らかした本をたどって

酷いくらいに

酷いくらいに (ガッシュ文庫)

酷いくらいに (ガッシュ文庫)

せつないいい話だと頭では思うのだけど、なんだか心にもやっとしたものが残った。
「優しさ」とは、いったい何をもって「優しさ」になるのだろう。
「優しくしたい」と願う気持ち?
「優しくする」という行為そのもの?
「優しくされた」という受け手の認識?
意志と行為と結果が完全に一致しないと、それは「やさしさ」とは呼べないのだろうか。考えてもとても難しくて、答えがでない。わかるのはただ、ひとりじゃ成り立たないんだろうということくらいだ。「私」と「あなた」の間にうまれる何か。
克至の優しさは優しさじゃないんだろうか。秋を「かわいそう」だと見下していた克至と、秋を「きれいで強い」と称えた広見と、秋を自分とは異なるものとして見ていたという一点では同じ気がする。もちろん克至の傲慢は褒められたもんじゃない。でも、独善的に秋を愛したといっても、力で拘束したわけではなく意図した打算もないならば、それはきちんと心と言葉を交わし合うことのなかった克至と秋、二人の不幸だ。「醒めてしまった」という秋の言葉以上でも以下でもない。
いろいろ書きなぐったが、ここに書かれているのは本の内容でなく私の人格と思想でしかない。
愛されたいという気持ちは人を寂しくさせる。愛することによってのみ、人は孤独から解放される。それでも人はみな、この飢えに囚われてしまう。どうして自分だけが、と差し伸べられている手すら目に入らなくなる。秋が寂しくなくなったのは、愛されたいと口を開けて待っているだけじゃなしに、声に出して言葉にして「愛されたい」って伝えることができたからだろう。
書き下ろしの「ひとの望みのよろこびよ」は、秋の社会との関わりを描きながら徐々に二人の関係性へと接近していく、ここのところの高遠さんらしい力作。
引用されている“病者の祈り”という詩篇に、何より胸をつかれた。